昭和40年06月28日 夜の御理解



 私はここで、何時も神前結婚をなさる新郎新婦の方達に、このことだけは、必ず私が申しますんですけれども、ここでは祝詞を、神様に誓いの文を奏上されます。それから、玉串を奉られる前に、玉串と玉串を取り交わされます、仲人さん方が。これはまあ、ここ独特のアイデアでございましょうけれども、私これ、このことも皆神様にお知らせを頂いてから、椛目ではそうさせて頂いております。
 これは、心と心の取り交わしだと、言う意味のことを申します。言葉と言葉を持って、真とまことの言葉を持って取り交わす。心と心を取り交わす。そして、まあ、新婚旅行等に行って、ここから出ておいでられる方達に、これからは、身体と身体との交流であり、取り交わしをするのだと。それで初めて、その結婚式が終わったということが言える、といったような意味のことを申しますのですけれどもね。
 まあ、どういうような、これは夫婦の間でも、どういうようなことからでも通うておる。例えば、夫婦喧嘩は犬も食わんといったようなことを申しますが、ほんとにもう、昼は、がんがん言うて喧嘩しよるけん、止めに、そらてんでもう、ほんとにもう、あげなつは追い出さなちいうちから、それかというと、あくる日になると、ちゃんと仲良うなっとる。もう馬鹿んごたる。
 もう夫婦喧嘩どん、ほんなごつ止めに行くもんじゃなかといったようなことを申しますのも、それはやっぱり、身体と身体が取り持つひとつの縁なんですねえ。何かによってその、交流するわけですね。ところがその、最近、用事のあってくる婦人の方で、夫婦仲が非常に悪いんです。もう、両方ながらがもう、嘘の言い合いです。ね。ですからもう、どこをとっても、心でも、身体でも、言葉でも交流しない訳ですね。
 これじゃもう、また別れる他無いといったようなところに、立ち至っておるような人がありますけれども。せめてその、言葉の上になりとも真が通う。心で本気で、その主人のことを思うというような、何かが、それがなされりゃいいけれども、それがなされないから、これは、いわゆる中に、冷たいものが入ってしもうてから、結局、別れなければならないというような結果にしかならないですよね。
 同じ度を持ってですから、もう親子だけじゃありません。兄弟だけのことじゃありません。夫婦だけのことじゃありません。ね。いわば親友とこう、言うてもそうです、ね。何かを持って交流しておるから、あれが例えば私の悪口を言うたと、言うて腹かくことは要らない。あれが例えば言うたっちゃ、心の中はちゃんと私と通うとっとじゃから、といったようなふうに、そんな何と言うですかお互いがその、信じ合っておる真心を持って繋がっておるから、それが問題じゃなくなる訳なんです。
 ですからその問題になってはならない様な事が問題になって、不和の元を起こす。そこにその、絶縁状態といった様なものが出来るように、神様と私共の間は尚更の事なんですよ。今ここであの、田代さんのお取次ぎをさせて頂いたんですけれども、先夜、何か急ぎものがあったから、ご自分でその、お客さんの着物を徹夜して縫われる。まあそん時にその、良い思いなら良いけれども信心。
 ああこげな思いが頭かすめちゃ不安であり、心配であるといったようなその、思いがその非常にそれをうちにうちに、こげな思い方じゃいかん、こげな思い方じゃいかんとこう、心からその思い上げて神様におすがりするたんびに、その、ご信心でおイサミを頂かれたとこういうのです。如何に神様と、私と、神様と皆さんと、ね。神様といわば、田代さんが、ああ、こげな事じゃいかん。
 神様の前に座らせてもらわにゃいかん、神さまの御前に座らせて頂きゃ、こんなことは無いという、その思いが、如何に交流するかということが分かるでしょうが。ですから、その、そん時に、刹那的に交流するのじゃない。その、通う心を育てて行くということが信心だということです。はあ、自分の、この今の思いを聞いて下さったんだと。ほんなら、その思いを育てていかなければ、だから、いわゆる、交流して通うという道にはならない訳なんですよね。
 どうぞ一つ、勿論、人間関係の上においても然りでございますけれども、ね。神様と私共との間の、交流ということ、それが始めて、その道をたどって、おかげが流れて来るのでございますから。あの、兎に角神様と交流しない人がある。ね。それはまあ、ある意味で、祈念力なんかの強い人は、一生懸命拝んで交流するという場合も有るけれども、これでは、その、あんまり、ほんとの意味合いじゃないですね。
 いわば、神様のお心と、私共の、心が通うものでなからなければいけん。拝んだから、その、交流するというのではなくてですたい。神様の心の、例えば、おイサミなんかというのは、必ずといって良いほど、何か有り難いことを思うとですね。そうだと。そこぞ、と、こう仰るときですね。何時もあの、はっきり、すっきりとしたおイサミを頂くのは。または、それとは反対に、神様の御基幹に叶わないようなときに頂くおイサミなんかは、やっぱ、叶わないことで通うわけなんですね。
 神様がいやな思いなさることで、もうどうした氏子じゃろかとこう、うなずかれる時に、その何かそんな事があるにはあるです。けれどもそうなんだとその上で育てて行くのだと。言う様な思いがほんとだと、こう言う様な時に下さるんですよね。ですからそれを育てて行くということ。ね。勿論そう言う様な働きというのは、こちらにこう明記しとかなならんけれども、やはり神様が生々としておかねば駄目。これはもうほんならまあ言っては悪いんですけれども、どんなに大きなお社がお祭りしてあっても、もう中が枯れてござる神様がござる。
 いわばゴヒレイが立たない神様がござる。まあ私はそういう意味合いでむつやの神様には椛目のゴヒレイが移ってござると思うですね。ゴヒレイ勢いというものが、この流れておると。そういう風に田代さんが思いが生々としている思いが思われるときに、息子に交流するに、日払いするようなもの。そこからその思いをです。問題は育てておくということに焦点を置かないかん。そこに修行の焦点が置かれなければいけないと思うですね。
   おかげ頂かねばいけません。